『ハイリゲンシュタットの遺書』を書いた家へ【2017夏・中欧4カ国旅行記(41)】 [旅行・乗り物]
「ベートーヴェンゆかりのハイリゲンシュタットへ【2017夏・中欧4カ国旅行記(40)】」から続きます。
「ベートーヴェンは引っ越し魔だった」という話は書きましたが、ウィーン郊外のハイリゲンシュタット地区の中にも、「ベートーヴェンが暮らした家」が何軒もあります。
その中で一番『有名』なのが、「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いたこちらの家です。
ベートーヴェンは若い頃から耳の不調に苦しんでいましたが、1802年、32歳のころ、身内(弟やおい)に宛てて『遺書』を書きました。
それが「ハイリゲンシュタットの遺書」で、難聴についての絶望や人生の苦しさなどを綴っていますが、その後も作品を生み出し続けました。
この「遺書」は、あたかも芸術についての決意を新たにしたかのような時期に書かれており、その意味でも重要とされています。
その「遺書の家」の近くには、「ホイリゲ」(ウィーン独特のワイン酒場)が何軒もあるんですが、そのうちの1軒にはベートーヴェンが住んでいたことがあるそうで、それを誇るかのような看板が掲げられています。
付近の道は「エロイカ通り」と名付けられています。
(「エロイカ」は交響曲第3番の『副題』)
そして、ハイリゲンシュタット地区にあるもう1軒の「家」がこちら。
「1817年夏に住んでいた」ということですから、ベートーヴェンは46歳くらい。
(つづく)
「ベートーヴェンは引っ越し魔だった」という話は書きましたが、ウィーン郊外のハイリゲンシュタット地区の中にも、「ベートーヴェンが暮らした家」が何軒もあります。
その中で一番『有名』なのが、「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いたこちらの家です。
ベートーヴェンは若い頃から耳の不調に苦しんでいましたが、1802年、32歳のころ、身内(弟やおい)に宛てて『遺書』を書きました。
それが「ハイリゲンシュタットの遺書」で、難聴についての絶望や人生の苦しさなどを綴っていますが、その後も作品を生み出し続けました。
この「遺書」は、あたかも芸術についての決意を新たにしたかのような時期に書かれており、その意味でも重要とされています。
その「遺書の家」の近くには、「ホイリゲ」(ウィーン独特のワイン酒場)が何軒もあるんですが、そのうちの1軒にはベートーヴェンが住んでいたことがあるそうで、それを誇るかのような看板が掲げられています。
付近の道は「エロイカ通り」と名付けられています。
(「エロイカ」は交響曲第3番の『副題』)
そして、ハイリゲンシュタット地区にあるもう1軒の「家」がこちら。
「1817年夏に住んでいた」ということですから、ベートーヴェンは46歳くらい。
(つづく)